イジンデン コラム 第7廻

天才音楽家・モーツァルトの生涯

①イントロダクション

 偉大な音楽家の名前を挙げろと言われた際に、モーツァルトの名が挙がらないことはないだろう。近代の夜明けが見えてきた 1756 年にドイツ、ザルツブルクに生をうけた彼は、しかし、1791 年に 35 歳という若さで亡くなった。35 年のモーツァルトの人生は、日本でも広く知られているところだ。特に、天才の華々しいイメージとは裏腹に、彼がその晩年に借金苦に陥り苦難の日々を過ごしたという逸話は、有名である。しかし、新しい研究ではこのようなイメージを覆す説も出てきている。今回はそのような新しい知見に基づきながら、モーツァルトの人生を追っていく。

②天才児現る

 モーツァルトは生まれながらの天才児であった。3 歳にしてチェンバロを弾き、4 歳からレッスンを受け、5 歳では作曲を始めた。自らも高名な音楽家であったモーツァルトの父レオポルトは、この天才を立派に育て上げるという使命に駆られた。そこで父がとった方針は、狭いザルツブルクを抜け出して、ヨーロッパ各地へ向かい、最先端の音楽を学ばせることであった。

 モーツァルトの行先は多岐に渡った。6 歳のモーツァルトはまずミュンヘン、そしてウィーンに向かった。ウィーンでは、ハプスブルク帝国の女帝マリア・テレジアの御前で自らの演奏を披露した。その後一旦ザルツブルクに戻るも、間髪入れず、翌年には足掛け 3 年にも及ぶ大旅行へ旅立つことになる。ケルンやブリュッセル、パリ、ロンドン、アムステルダムなど西ヨーロッパの大都市を巡った。彼は行く先々で様々な演奏を披露し、観衆を虜にした。経験を積んだモーツァルトの更なる目的地は、ヨーロッパ音楽の最先端地域であるイタリアであった。このイタリア旅行は全部で三度に渡った。彼はイタリアで旋律を含む多くのことを学んだ。イタリアから帰ってきたとき、モーツァルトは 17 歳になっていた。

③苦難の青年期

 青年になったモーツァルトは、ザルツブルクの宮廷音楽家としての職を得ていた。しかし、モーツァルトはこの状況に満足していたわけではなかった。そのことは同時期の作風にも表れていると言われる。この閉塞を打破すべく、父レオポルトは再びの旅行を計画した。しかし、父によって厳しく決められた今までの旅行とは異なり、今回の旅行は母を伴っての旅行になった。モーツァルトはそこで初めて味わう自由に酔いしれる。

 彼は目的地パリへの道すがら、女性との交流を深めた。特に才媛であったアロイージアに、モーツァルトは入れ込んだ。その入れ込みようは病床の父から、盛んに注意の手紙が届くほどであった。

 結局モーツァルトは父の意向に従い、パリに向かう。しかし、彼はそこで望んだように職や支援を得ることができなかった。元「天才児」に世間は厳しかったと言えよう。さらに彼はパリで母を失うことになる。更に、失意のうちにザルツブルクに戻る道中、再開したアロイージアに交際を申し込むも無下に断られた。モーツァルトの青年期は様々な苦難を抱え込んでいた。ザルツブルクに帰ったとき、彼は 23 歳になっていた。

④ウィーンでの華々しい活躍

 しかし、苦難を乗り越えたモーツァルトは人間的にも、音楽的にも更なる成長を遂げていた。そのようなモーツァルトにとってザルツブルクはいささか役不足であった。ザルツブルクの大司教であるコロレードとのいさかいをきっかけに、25 歳の彼はウィーンで生活することを決心する。この時代としては異例のフリーの音楽家としてのスタートであったが、彼は音楽好きの皇帝ヨーゼフ 2 世をパトロンとし、生活を軌道に乗せた。アロイージアの妹のコンスタンツェと結婚を執り行ったのもこの時期である。父の反対を押し切っての結婚であった。

 結局ウィーンにおけるモーツァルトの活躍は非常に華々しいものとなった。絶頂期となった 1784 年(28 歳)、コンサートシーズンである 3 月には、貴族邸での演奏会にピアニストとして 二日に一回出演し、私的演奏会や劇場演奏会を五回行うほどであり、更には教師としても引く手数多だった。また自作の作曲も順調に進んでいた。先輩音楽家であるハイドンとの交流を通じて、自らの音楽性をさらに高めていったのである。

⑤貧しきモーツァルト?

 ウィーン生活前半の華々しい活躍と比べて、その後半においてモーツァルトは厳しい状況に陥った。富裕な商人であったプフベルクに対する、1788 年以降の立て続けの借金の申し込みなどがそれを証言している。人口に膾炙している「貧しきモーツァルト」像はこの頃のイメージである。一方で最新の研究はモーツァルトが一貫してかなりの高額所得者であったことを示している。一体どちらの見方が正しいのだろうか。

 結論としては、モーツァルトは確かに困窮していたが、イメージされるほどの極貧生活からは程遠かった。収入について言えば、確かに減少していた。1790 年にはモーツァルトのパトロンであったヨーゼフ 2 世が死去し、弟のレオポルト 2 世が即位したが、レオポルト2 世はモーツァルトにあまり関心を抱かなかった。また 1787 年から始まったオスマン帝国との戦争に対する戦費が嵩張り、貴族たちが音楽に対して資金を出し渋るようになったのも痛手であった。87 年から 88 年にかけてのモーツァルトの年収はおおよそ半減したとされていている。とはいえ、その半減した年収でも、十分高額所得者といえるほどであった。

 一方で、87 年にモーツァルトは宮廷音楽家としての職を得た。見栄っ張りの彼は、宮廷音楽家としての名誉に傷をつけぬように、収入が減っているにも関わらず、支出を減らすことができなかった。つまり、晩年の彼の困窮は収入に見合わぬ、支出のせいであった。しかし、その困窮は一般にイメージされるような極貧生活とは程遠いものであろう。

⑥天才の若き死

 彼最後の年になる 1791 年(35 歳)は、しかし、今までの苦難を後目に非常に実り豊かなものであった。彼はこの年に様々な作品を完成させた。特に『魔笛』、『皇帝テュートの慈悲』の二作のオペラは完成したその年に早速上演され、高い評価を得た。そして『レクイエム』の作曲途中に、35 歳の若さで亡くなった。死因は定かではないが、病死であることは確かとされている。

参考文献
磯山雅『モーツァルト』(筑摩書房、2014)

文・早稲田歴史文化研究会

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