イジンデン コラム 第11廻

皇帝になった革命家 ナポレオン

〇イントロダクション
近代の夜明けに現れた巨人。ナポレオン・ボナパルト。彼はコルシカ島という小島の小貴族の生まれから、フランス革命の動乱の中で頭角を現し、フランスの皇帝へと上り詰めた。彼の権勢はフランス一国に留まらず、一時期はヨーロッパ全域を席巻せんばかりであったが、ロシアでの大敗北から坂道を転げるより失墜し最後には手に入れたすべてを失って大西洋の孤島、セントヘレナで孤独に亡くなった。
綺羅星のごとき人生を送った彼は、ヨーロッパのみならず日本においても多大な憧れを集めるが、それに反して彼の実像というのはあまり知られていないかもしれない。例えば、アルプスを越えて進軍する際に言ったとされる、「余の辞書に不可能という言葉はない」という格言は広く人口に膾炙しているところであるが、この格言を本当にナポレオンが言ったのかということに関しては疑問が存在する。そこで今回はナポレオンの人生を簡潔に追ってみよう。

〇一砲兵将校から「フランス人の皇帝」へ
ナポレオンが生まれたコルシカ島は、もともとジェノヴァ共和国の領地であり、1768 年にフランス領になっていた。ボナパルト家もイタリア、トスカーナ地方の出であると言われる。つまり後のフランス皇帝ナポレオンは生粋のフランス人というわけではなかった。ちなみに後に妻となるジョゼフィーヌはカリブ海のマルティニーク島の生まれであり、フランス皇帝とその皇后はともにフランスの辺境の生まれであった。ナポレオンの軍人としてのキャリアは 9 歳で入学したブリエンヌ兵学校から始まる。その後パリの士官学校に入学したが、成績は 58 人中 42 位とあまり芳しくはなかった。しかし、父の急死やコルシカという生まれ故のハンデも影響していた思われる。一年で学校を卒業した彼はコルシカ出身者としては初の砲兵将校として任官した。その生活はナポレオンにとっては退屈なものであったらしく、読書をして憂さ晴らしをしていた。

事態は 1789 年のフランス革命の勃発から動き始める。ナポレオンは革命が起こると革命派への忠誠を誓った。92 年までの 3 年間は、コルシカ島や隣のサルデーニャ島をめぐって活動していたが、さしたる成果を上げるわけでもなく寧ろ足を負傷する有様であった。その後はフランス本土に軸足を動かし、93 年のトゥーロンの戦いでは砲兵隊司令官としてイギリス軍を撃退した。その功績を認められ、彼は 24 歳の若さで准将に昇進する。一時は政変の影響で軟禁され進退が危ぶまれたが、政界の大物であったバラスに目を掛けられ、王党派反乱の鎮圧に抜擢された。彼はここでも大戦果を挙げ、さらなる昇進を果たした。
ナポレオンの次なる目的地は北イタリアであった。96 年から 97 年にかけて行われたこの遠征は、北イタリア一帯を支配下に置くという、誰も想像していなかったほどの驚くべき戦果を挙げた。ナポレオンは優れた軍略によってこの遠征を成功に導いたのみならず、この戦果を新聞によって徹底的に宣伝することでフランス人から多大な人気を獲得した。この圧倒的功績と人気に加え、反政府の王党派の陰謀を暴いたことで、ナポレオンは単なる一将軍を超える影響力を持ちつつあった。

98 年、イタリアの次はエジプトである。これは最大の敵であるイギリスとその植民地のインドとの連絡を断つことが目的だった。一方でこの遠征軍には軍人以外にも大勢の学者・科学者が含まれ、エジプトを含むオリエントの神秘を解き明かすことも目的の一つであった。ここには知識人との友好関係を築きたいナポレオンの思惑があったと言われる。緒戦は勝利を収めたナポレオンであったが、イギリスによって海軍が壊滅させられたり、ペストが蔓延したりしたことを受けて、遠征軍の指揮を部下に任せ、自身は本国に戻った。
帰還したナポレオンはシェイエスのクーデター計画に乗る形でクーデターを実行し、ごたごたの中で首謀者のシェイエスを押しのけてクーデターの主役となった。フランスの「救世主」と宣伝されたこの男は、99 年の新憲法で既存の政府を廃し、新たな統領政府の第一統領となった。ここにナポレオンは名実ともにフランスを導く存在となっていた。

行政のトップとなったナポレオンは、軍事以外にも彼が非凡な才能をもっていることを示した。直接税の国家的徴収、フランス銀行の創設、第一統領による任命制の官僚・県知事、宗教協約の締結等々、挙げればキリがないほどである。特に重要なのが 1804 年のナポレオン法典の制定である。女性の地位など後退した部分もあったが、封建制の廃止、所有権の絶対、労働の自由、信仰の自由などの現代まで続く革命の成果を法律として制度化した。このような動きに並行してナポレオンは自らに反抗的な大臣や議員を排除していった。
1802 年には第一統領を終身制に、そして 04 年にナポレオンは皇帝として戴冠した。とはいえナポレオンは自らの帝国が今までの王政と同一視されるのを慎重に避けた。帝国のシンボルは、ブルボン朝の百合ではなく、より古いメロヴィング朝のミツバチとローマ帝国の鷲とされた。また国号も当初は「共和国」のままであった。何よりもナポレオンの戴冠は国民投票によって決定されていたのである。

ナポレオンを讃える曲を作曲していたベートーヴェンは、ナポレオンの皇帝戴冠を聞いて非常に怒り、その曲の題名を「ナポレオン」から「英雄」に変えたと言われる。そのようにナポレオンには革命を裏切った独裁者というイメージを付与されてきた。それは一面では事実であるが、ナポレオン法典に示された理念や皇帝戴冠に際しての態度は、革命を引き継ぐものでもあった。ナポレオンが公布した 1799 年の憲法には「革命は終わった」という言葉があるが、その言葉の通りナポレオンは革命の成果を確立した一方で、新たな方向へと足を踏み出していた。


〇ナポレオン戦争
1792 年から始まっていた革命フランスとヨーロッパ諸国との革命戦争は、1802 年の英仏間のアミアンの和約で終わりを迎えていた。しかしそれも束の間、翌年には英仏間での戦争が再開された。ナポレオン戦争の始まりである。英仏間の対立はフランス製品のための市場を確保しようしたための、イギリス製品の大陸からの排除が原因であった。この対立に呼応してフランスの覇権を疎ましく思っていたロシアのイニシアティブで対仏大同盟が再度結成された。
海ではトラファルガーの海戦でイギリス海軍に大敗北を喫し海外植民地を占領されるが、陸ではアウステルリッツの戦いでオーストリア・ロシア連合軍を打ち破った。そのままの勢いでナポリ王国やプロイセン王国をも打ち破り、ロシアとも和睦・同盟を結んだ。また征服した土地を再編し、ライン連邦やポーランド公国を成立させたり、あるいは自らの兄弟を国王として送り込んだりすることで、ヨーロッパの国際秩序を自らの思うがままにした。
しかし、ナポレオンの天下も長くは続かなかった。征服された各国では反フランス感情が多かれ少なかれ育っていた。特にスペインでは、08 年にナポレオンによって国王がナポレオンの兄ジョゼフに挿げ替えられたことに怒った民衆が、ゲリラ闘争を開始した。ナポレオンは軍事力をもってこれを鎮圧することを目論んだが、イギリスの支援を受けたゲリラを打ち負かすことはついに出来なかった。

特に致命的であったのが、ロシア遠征の失敗である。「大陸封鎖令」に従わないロシアを懲罰するために 60 万もの大軍を率い出発したが、ロシア軍の徹底した焦土戦術によって苦しめられた。なぜなら現地での軍の補給ができなかったからである。何とか大都市モスクワにたどり着くもそこもロシア軍によって燃やされ、廃墟同然になっていた。ナポレオンは一か月ほどモスクワに滞在しロシアからの講和の使者が訪れるのを待ったが、ロシアはフランス軍の苦境を知っており使者を出すことはなかった。10 月、冬へ入りかけた時期にナポレオンは撤退を決定するが、ロシアの厳冬、補給不足、ロシア軍のコサック騎兵の追撃などに晒され、ロシアから帰還できたのは数万人であったと言われる。

この敗戦を受けて、プロイセン、オーストリアも再度対フランス戦争に参加した。フランスに帰還したナポレオンも徴兵を強化しこの事態に対応しようとしたが、ライプツィヒでの会戦に敗北し、戦場はフランス国内へと移った。ついに連合軍がパリを占領するに至り、ナポレオンは皇帝からの退位を迫られる。ナポレオンの敗因の原因は何か。ナポレオンの革新的戦術が各国軍に取り入れられた、各国の国民意識が高揚した、イギリスの経済力がフランスを打ち負かした、ナポレオンの老い、驕りが敗北を導いた。様々な説が唱えられてきたが、ナポレオン自身は自らの敗因について何も語っていない。

〇落日
皇帝から退位したナポレオンは、200 万フランの年金と地中海の小島、エルバ島の君主としての地位を与えられた。ヨーロッパを席巻したフランスの皇帝としての姿は見る影もないが、かなり寛大な処置であったと言えよう。しかし、ナポレオンは 1815 年にエルバ島を脱出しフランスへ帰還する。復活したブルボン王朝へのフランス人の不満を利用することで皇帝への復位を図ったのであった。その賭けは成功し、フランス人は皇帝の復活を歓迎した。再度結成された対仏大同盟との決戦を準備するが、結局ワーテルローで行われた決戦でナポレオンは大敗し、再度退位を迫られた。ナポレオンはその後、その地で死ぬことになる大西洋の孤島セントヘレナ島に軟禁された。同地での生活はそこそこの屋敷や 50 人ほどの従者を伴ったそれなりのものであったが、孤島での単調な生活はナポレオンを蝕み、1821年 51 歳でその生涯を終えた。

すべてを手に入れ、すべてを失ったナポレオンであるが、彼の「歴史」は彼の死後にも続いた。ある人は彼を近代ヨーロッパを作り出した巨人として讃え、ある人は彼を何百万もの人間を死へ追いやった「人食い鬼」として罵倒する。ナポレオンを讃える人々はフランスだけでなく、彼に征服された国々の人々も含まれる。特にポーランドの国歌には「ボナパルト」の名が登場している。また彼の甥であるナポレオン三世はナポレオンの栄光を利用して、フランス大統領、そしてフランス皇帝になっている。以上簡単にナポレオンの人生を追ってきたが、妻であるジョゼフィーヌとの関係や、個性的な配下の将軍たちなど、紹介できなかった逸話は数多くある。またナポレオンが作り出した国家のあり方なども最近研究が進み、多くのことが明らかになっている。さらに気になった方は以下の参考文献などを自分で確認してみてほしい。
〇参考文献
上垣豊『ナポレオン―英雄か独裁者か』(山川出版社、2013)
杉本淑彦『ナポレオン―最後の専制君主、最初の近代政治家』(岩波書店、2018)

文・早稲田歴史文化研究会

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