イジンデン コラム 第14廻

「偉人」織田信長の実像


①イントロダクション
織田信長と言えば、豊臣秀吉・徳川家康と並んで「戦国三英傑」のひとりとして知られ、日本史上一番人気のある人物だと言ってもよいだろう。実際、たくさんの小説やゲームに題材として取り上げられ、ドラマや映画、マンガ、アニメなどでも幾度となく登場する。そうしたメディア上での信長像は「革命児」や「革新者」という場合が多く、世間一般のイメージも同様である。
しかし、そうした信長像は徳富蘇峰の通史・『近世日本国民史』や司馬遼太郎の小説・『国盗り物語』などの影響で形成され、当時の価値観や社会状況と合致することで広範に拡散されたものに過ぎない。つまり、そうしたイメージは彼の実像を必ずしも反映しているとは言い難いのである。そこで、今回はそうした「偉人」・信長の生涯を最近の研究に基づきながら追ってみたい。


②信長の誕生と家督継承
天文 3 年(1534 年)、信長は尾張国(現在の愛知県)に織田信秀(父)と土田正久の娘(母)の息子として生まれた。幼名は吉法師と言った。兄弟には同母弟・信勝や異母兄・信広のほか、信包・長益(有楽斎)などが居たことで知られる。彼は天文 15 年に元服して三郎信長と名乗り、同 17 年~18 年には、美濃国(現在の岐阜県)の斎藤道三の娘(濃姫・帰蝶)と結婚した。その後、天文 21 年に父・信秀が死去したため、織田弾正忠家の家督を継承することになる。
ちなみに、抹香(焼香に使う香料)を仏前に投げつけたという「大うつけ」ぶりを示す有名なエピソードは、父の葬儀の際にあった出来事である。


③尾張・美濃平定
家督を継承した信長は、さっそく危機に直面することになった。駿河国(現在の静岡県)の今川義元が尾張国内に侵攻してきたうえ、道三を敗死させた美濃の斎藤義龍や織田一族と敵対することになったのである。彼は弟・信勝を討ち取るなどして信秀の後継者の地位は固めたものの、国内には依然敵対勢力が多かった。
その最中の永禄 3 年(1560 年)、ついに義元が大軍を率いて侵攻してきた。桶狭間の戦いである。多勢に無勢で援軍にも期待出来ない彼は、孤立した義元本陣を直接攻撃することで義元を討ち取り、大軍を敗走させることに成功する。大勝利だった。これによって尾張を平定し、永禄 4 年には、今川家から自立した三河国(現在の愛知県)の松平元康(のちの徳川家康)と同盟を結ぶことに成功する。続く平定目標は美濃だった。長期にわたる侵攻の末、永禄 10 年には義龍の後継者・龍興を逃亡させ斎藤家の本拠・稲葉山城を攻略した。美濃を平定した彼のもとには、経済的に困窮した朝廷や室町幕府の再興を目指す足利義昭の働きかけが来るようになっていた。


④室町幕府再興と信長包囲網の形成
義昭の要請を受けた信長は、上洛に供奉して義昭を将軍に就けることを決める。美濃を平定した彼は、周辺諸勢力を味方につけるなどして周到に上洛準備を行ったのち、義昭を迎え入れて上洛を開始する。近江国(現代の滋賀県)の六角承禎父子を観音寺城から退城させ、京都や畿内(現在の近畿地方の一部)を掌握していた三好三人衆を追放して、ついに「天下」(畿内)を平定する。永禄 11 年(1568 年)のことである。義昭は征夷大将軍に任命され、室町幕府は再興されるに至った。
信長は二条御所(義昭の御所)の新造や禁裏(天皇の御所)の修築を主導し、京都の治安維持や公家・寺社の領地安堵などを積極的に実施することで、秩序の回復を企図した。必ずしも元通りではなかったが、彼と幕府の補完関係のもとで幕府は着実に再興されていった。
しかし、義昭との関係には早くもかげりが見えていた。彼が義昭を監視下に置いてその権限を制約したからである。そして、何よりもその権力基盤が盤石ではなかった。確かに、将軍に代わって「天下」の静謐を実質的に担保していたのは彼だったし、彼はその正当性のもとに軍事行動を繰り返し強大な政治権力を手に入れていた。だが、元亀元年(1570 年)、彼の勢力拡大に危機感を抱いた勢力が結集し、信長包囲網(反信長同盟)が結成された。これによって、彼は突如として窮地に陥るのである。


⑤信長包囲網との戦い
まず信長は、既に敵対関係にあった越前国(現在の福井県)の朝倉義景や同盟関係にあったはずの浅井長政によって追い詰められる。これに関しては姉川の戦いに勝利して危機を脱するが、三好三人衆との戦闘の最中に本願寺が挙兵して撤退を余儀なくされ、挙兵を受けて進軍してきた浅井・朝倉軍と近江の志賀郡で三ヶ月近くにわたり対陣することになる(志賀の陣)。北畠家を攻略して領地(分国)化した伊勢国(現在の三重県)でも、長島一向一揆が蜂起して弟・信興が自刃に追い込まれるなど、各地で反信長勢力の蜂起が相次ぎ事態の打開が困難になりつつあった。
とはいえ、この危機は義昭らによる調停によって両者が和睦することで窮地を脱する。元亀 2 年(1571 年)の彼には、浅井攻め・長島攻めや比叡山焼き討ちを敢行する余裕があった。しかし、元亀 3 年、近江で六角承禎父子と一向一揆の蜂起、畿内で三好義継・松永久秀父子の離反、東国で武田信玄の出陣が相次ぎ、特に信玄は、徳川家康を三方ヶ原の戦いで敗北に追い込むなどしていた。天正元年(1573 年)には、信長が徹底的な批判を加えた異見一七ヵ条を突き付けた義昭が挙兵した。信長包囲網に追い詰められた彼の窮状は、もはやどうしようもないかのように思われた。
だが、脅威だった信玄は病死し、一旦の和睦を経て義昭を降伏に追い込み、朝倉軍を追撃して朝倉家を滅亡させた。次いで浅井家も同様の運命をたどった。三好義継は自刃、松永久秀は降伏し、本願寺も彼と和睦した。包囲網はあっけなく崩壊した。天正 2 年には、信玄の後継者・武田勝頼が攻勢に出たり、本願寺が再挙兵したりしたが、長年抵抗した長島一向一揆は彼によって悲惨な最期を迎えることとなった。翌年(天正 3年)の長篠の戦いでは、織田・徳川連合軍が武田方に勝利することに成功し、朝倉旧領を奪取した越前一向一揆も殲滅され、その威圧を背景として本願寺と和睦した。彼は権大納言・右大将に任官し、嫡子・信忠に家督を譲与した。信長政権は徐々にその姿を現しつつあった。

⑥絶頂期真っ只中の死去
信長が自身の居城・安土城を築城し始めた天正 4 年(1576 年)、本願寺との戦いが再開され、中国地方の戦国大名・毛利家が参戦する(その結果、彼の水軍は毛利水軍に大敗する)。義昭も毛利領の備後国(現在の広島県)に移った。北陸地方の上杉謙信も彼と敵対関係に入る。天正 5 年には松永久秀父子が謀叛を起こし(年内に久秀は自害する)、天正 6 年には別所長治・荒木村重が離反した。西日本を中心とした反信長勢力は強力であり、戦闘は長期化することとなる。
しかし形勢を徐々に挽回していき、天正 8 年、長治は自害に、村重は逃亡に追い込まれ、長期にわたり抵抗し続けた本願寺も信長と和睦して大坂(現在の大阪府大阪市)を退去する。羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)は毛利家との戦闘を優位に進め、上杉家も天正 6 年に謙信が死去したことで内乱状態に陥った(御館の乱)。義昭の影響力も相対的に低下していた。天正 10 年、長年の宿敵・武田家はあっけなく滅亡することとなり、彼は全国制覇への道を大きく前進させた。もはや彼と中央政権として成熟した織田政権を阻むものなどいないように思われた。しかし、そのまさしく絶頂期真っ只中の同年 6 月 2 日、油断していた彼は明智光秀の軍勢によって本能寺で自刃に追い込まれる(本能寺の変)。突然の死去だった。
その後、光秀は「中国大返し」を実行した秀吉に山崎の戦いで敗れ、のちに討たれる。勝者となった秀吉は数年後には関白となり、豊臣政権を樹立することになる。なお本能寺の変に関しては、実に多くの黒幕説が存在しているが、光秀による「突発的な単独犯行」(呉座勇一氏)と見るのが妥当である。犯行動機にもさまざまな議論があるが、近年は信長の四国政策転換によって光秀が面目を潰されたために発生したものだという説が有力である。


⑦織田信長の「実像」
信長は、しばしば「全国統一」を目指したと誤解されることが多い。しかし、彼の用いたハンコにある「天下布武」の「天下」の意味は、畿内を中心とする地域を指すに過ぎない。彼が目標とした「天下静謐」も、将軍による「天下」地域の政治秩序安定という意味であり、「全国統一」というわけではない。そのように見える支配領域の拡大についても、実際には「天下静謐」を妨害する勢力との戦争が結果的にそうなっただけである。織田政権それ自体についても、その後の豊臣政権・徳川政権(江戸幕府)につながる側面はあるものの、政権基盤を一門・譜代に集中させた、極めて不安定な独裁的権力であり、政治機構や百姓支配は未成熟だと言わざるを得ない。
信長の事蹟で有名なものとしては、以上で見てきた上洛や戦争以外にも、その流通・都市政策が挙げられる。しかし、それらは必ずしも「先進的」とは言えない。たとえば、よく知られる楽市楽座は、近江の六角家などで先行する事例が存在しており、信長の場合であっても、実施したのがそもそも一部に過ぎず、その中身もさまざまである。
また同様に、長篠の戦いでの鉄炮三段撃ちなども歴史的事実として否定される傾向にあり、彼が否定していたともみなされる幕府・将軍(義昭)や天皇・朝廷との関係も基本的に協調関係にあったのである。そのほかにも、世間の評判に敏感な側面も存在することは指摘しておいてよいだろう。
つまり、「織田信長」という人物は、実際には「革命児」や「革新者」とは程遠いのである。政治的・軍事的能力はあったにせよ、弱点や隙もあるような人間だった。彼は軍事的にも政治的にも経済的にも、革新的な存在では決してない。しかし、それは彼が「偉人」だということを否定しない。彼は直面した時代とその生涯をかけて格闘しながら、長期にわたる軍事行動の末に中央政権(織田政権)を樹立することに成功した、優れた戦国大名だったのである。彼は、間違いなく「偉人」だったと言えるだろう。


参考文献
池上裕子『織豊政権と江戸幕府』(講談社学術文庫、2009 年)
池上裕子『人物叢書 織田信長』(吉川弘文館、2012 年)
今井林太郎「織田信長」(『国史大辞典』)
神田千里『織田信長』(ちくま新書、2014 年)
金子拓『織田信長〈天下人〉の実像』(講談社現代新書、2014 年)
久留島典子『一揆と戦国大名』(講談社学術文庫、2009 年)
黒田基樹『国衆』(平凡社新書、2022 年)
呉座勇一『陰謀の日本中世史』(角川新書、2018 年)
呉座勇一『戦国武将、虚像と実像』(角川新書、2022 年)
高橋典幸・五味文彦編『中世史講義』(ちくま新書、2019 年)
高橋典幸編『中世史講義【戦乱篇】』(ちくま新書、2020 年)
谷口克広『織田信長合戦全録』(中公新書、2002 年)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線』(朝日文庫、2020 年)
福間良明『司馬遼太郎の時代』(中公新書、2022 年)
渡邊大門編『信長軍の合戦史』(日本史史料研究会監修、吉川弘文館、2016 年)

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